久々の新しいお話です。我々も老けてまいりましたので、頻繁に話題を提供できず、申し訳ないと思っております。また歳のせいか、内容も年寄りの繰言が多くなっているかと思うのですが、恐縮ながら今回もそのようなお話かと・・・
近頃、と言いましてもかなり以前からあるものではございますが、料理屋さんによっては一斉スタートという形で営業されておられる店が出て参りました。 いったいこれはなんなのか?と思ってしまうのは我々だけでしょうか? 食事の開始時間に合わせて、客が揃ってから一斉に食事の開始。料理を出す速度も、それぞれの客の速度に合わすのではなく、あくまで一斉。よって食事の速度の速めの方は遅い方が食べ終わるまで、おあずけ状態。 会食におけるマナーとしては、皆に食事の速度を合わせて食すというのは当然のマナーではありますが、それはあくまで1グループでの会食でのことです。見知らぬ他人の組に合わすなどという事はありえないことです。 これが「おもてなし」になるとは、我々の世代では到底考えられません。 また店によっては「茶懐石」的な形と称して、そのような一斉の手法を用いておられる店もありますが、本来の茶懐石はあくまで茶の湯の正式の席「お茶事」の時に出される料理であり、その内容も形式も通常の料理屋さんの懐石料理とはまったく異なる料理です。当然に「お茶事」では1グループなので食事の速度も合わせますが、これは「茶の湯の席」での流れの中での食事。単に食事を楽しむ料理屋さんで提供される料理とはその意味もまったく異なるものです。 一斉スタートにするためのひとつの「言い訳」としか思えません。
では何故に一斉スタートという形をとられるのか・・・ 我々が考えるところ、また懇意の料理人さんたちとも意見を交換したのですが、考えることは同じでした。それは・・・ 「料理を出すのが作り手に楽」だからです。 それぞれの客の来店時間や食事速度に合わすという当たり前の形では、作り手は常にバラバラに様々な仕事をしなければなりませんが、一斉ならば、それがすべて一括ですんでしまうからです。つまり非常に効率が良くなる訳です。 このように料理人が楽をするためのシステムが果たして客をもてなすことになるのでしょうか。我々は到底そうとは思えません。以前なら考えられないシステムです。来店時間は営業のご都合もありますから、それに合わすというのはまだ解りますが、客として食事を楽しみに行くのに何故に見知らぬ人たちと食べる速度までも合わさなければならないのか。 どこに本来の京都の「もてなし」があるのか。
このような形態が成り立っているということ自体が最早、我々には理解できかねます。これも時代の流れなのでしょうか。これに納得されておられる方々がおられるからこそ成り立っている訳で、その方々を決してどうこうと言うつもりはありませんが、我々にはあまりに店側の「頭が高い」と感じてしまうのです。よって、そのような形のお店は当サイトでは掲載外ですが・・・
当然にお店側からはそれなりのご意見もおありで、また言い分もおありとは思いますが、我々には京都の「おもてなし」があまりに崩れているとしか思えず、今回の雑談となりました。
この内容を不愉快と思われる方もおられるかもしれませんが、これも我々、京都の老体の「ぼやき」とお許しをいただければ幸甚です。 では、次回をお楽しみに・・・ |